生ゴミの容器が遊び状態に
生ゴミの処理器であるコンポストを利用するようになり、まだ10日も経ってはおらず、生ゴミが分解が進んだとはまだ言えない状態だが、生ゴミを追加的に投入する時に蓋を開けても、悪臭がするようなこともない。これまで生ゴミを入れていた蓋付きのゴミ箱がお役御免状態、遊休状態となった。
生ゴミが減ったことで、週に2回の燃えるゴミの搬出日に関して、週に2回ゴミ出しせずとも、1回で事足りるようになった。これまでは、生ゴミを出すために、紙類などの燃えるゴミを合わせて搬出していたということに気がづいた。コンポストを、各世帯が利用するようになれば、地方行政のごみ処理費がかなり削減されるという予測が立てられそうだ。
衣類廃棄物も減らせないだろうか
減らせる。木綿素材のTシャツなど自然的な素材であれば、「分解可能である」。回転式のコンポストの発案し自ら作成した、非電化工房の藤村先生の言である。まだハラの森管理人は、シャツ等をコンポストには投入していないが、衣類のゴミを減らしていくことも、現代の人類にとって急いで取り組んでいかないと、SDGsを持ち出すまでもなく、生存の危機を招く要因になりうると思ったのである。
砂漠に衣類のゴミが散乱
衣類のゴミについて、考える契機となったのが、イギリスのWeb版ガーディアン誌にあった Sarah Johnson氏の ‘We turn waste into something golden’: the creatives transforming rags to riches *1の記事である。ここに、チリのアタカマ砂漠に捨てられた衣類の写真を目にしたことである。
*1 ’We turn waste into something golden’: the creatives transforming rags to riches;
by Sarah Johnson
このアタカマ砂漠は、乾燥著しく河川が海にまで届かないほどと記憶している。河川が潰えてしまうほどということは、土壌が発達しないということでもあるので、地面に岩盤の地層が顕になってしまっているので、馬が歩くのを嫌がるぐらい硬いらしいのだ。そのような荒涼としたような風景の中に、衣類のゴミが放置されている、異様さを感じないだろうか。上記の記事にある写真を見てほしい。
海岸、浜辺に衣類のゴミが散乱
もう一つ、Sarah Johnson氏の記事*2 に、気分悪くなる写真がある。
*2 ‘It’s like a death pit’: how Ghana became fast fashion’s dumping ground, by Sarah Johnson
アフリカのガーナで問題になっている衣類による環境汚染問題を取り上げている。この記事の中で、アグリビジネス事業家であるイヴェッティ・ヤー・コナドゥ・テタ氏が、ガーナのボルタ川450kmを泳ぎきった快挙を紹介している。ガーナには、ボルタ川のような本来の美しい自然がある一方で、首都であるアクラの海岸には、衣類やペットボトルが散乱し、その汚染ゴミは外洋に洗われる状態になっている事態がある。テタ氏は、この対照的に世間に提示することで、世論の喚起を図ろうとしている。とにもかくにも、この記事に掲載されている写真を見てほしい。
日本はどうだろうか?
8月24日、福島第一原発の処理水放出を日本政府は決行した。これは、大きな歴史的転換点であるようにも思える。日本は「核被爆国」から「核汚染加害国」になったという観方もできる。デブリに触れた汚染水をALPSで処理しきれている保証を与えていない。トリチウムの放出も、今後、どのような影響を海洋生物に与えるのか不明である。福島県は太平洋を望み、陸地側も阿武隈高地があり、風光明媚な土地である。そこが核汚染で住み難い土地になってしまっている。人災である。
人間は、ゴミや汚染地に包囲されて生きるのか?
地球温暖化に対策を講じる。確かに必要なことではあるが、話が大きすぎて、多くの人は、自分のこととして考えない。他人事になる。自分のこととして考えない限り、効果ある対策はできないだろう。
世界のあちらこちらで、ゴミの中で暮らしている人がいる。核による汚染で住み難くなった場所がある。身動きが取り難い世界にしてしまっている。
処方箋は、自らの出すゴミを減らすこと、核汚染物をつくらないことだ。こうした基本線なくして、人類は生き永らえることは不可能であろう。
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